大判例

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最高裁判所第一小法廷 平成4年(オ)982号 判決

上告人 逗子市長

被上告人 国

代理人 末原雅人

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人中平健吉、同花田政道、同中川明、同秋山幹男、同中平望の上告理由について

本件訴えは、権利義務の帰属主体たり得ない行政庁としての上告人が提起したものであって、不適法であることが明らかである。本件訴えを不適法とした原審の判断は正当として是認するに足りる。所論は、違憲をも主張するが、その実質は単なる法令違背の主張にすぎない。論旨は採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 大白勝 大堀誠一 味村治 小野幹雄 三好達)

上告理由

目  次

第一 憲法七六条一項及び裁判所法三条一項違反

一 原判決の判断の違憲、違法

二 本件紛争の争訟性(その一、行政権限主体と事業主体)

三 本件紛争の争訟性(その二、機関委任事務の性格とこれを執行する地方公共団体の長の地位の独自性)

四 法の支配と司法の役割

五 結論

第二 憲法九二条違法

第一憲法七六条一項及び裁判所法三条一項違反

一 原判決の判断の違憲、違法

原判決は、準用河川池子川の河川管理者たる逗子市長と仮設調整池の工事を行う事業者たる国(横浜防衛施設局長)との本件紛争は、一個の法主体内部の紛争であり、その解決は行政内部の調整により、最終的には国の行政権の属する内閣の責任と権限により図られるべきことが予定されているものと解すべきであり、法律上固有の利益をもって対立する独立した当事者間の紛争ということはできず、裁判所が審判すべき法律上の争訟にはあたらないとし、本件訴えを却下した一審判決は相当であるとした。

しかし、以下に述べるとおり、原判決の右判断は誤りであり、すべて司法権は裁判所に属すると定めた憲法七六条一項及び裁判所は一切の法律上の争訟を裁判すると定めた裁判所法三条一項に違反する。そして、右法令違反が判決に影響を及ぼすことは明らかである。よって、原判決は破棄されるべきである。

二 本件紛争の争訟性(その一、行政権限主体と事業主体)

1 行政権限行使の主体としての国の機関と事業主体としての国(又はその機関)との紛争の争訟性

(一) 現代社会においては、国の行政機関は、国民の福利その他の行政目的の実現のため、様々な分野において、法律により監督・規制権限を付与され法律にもとづいて適正にこれを行使すべきものとされている。そして、国民は、社会生活や経済生活の様々な場面で、これらの監督・規制権限の行使を受ける立場に立たされる。

他方、国は、その行政目的実現のため、私人や私企業と同様、様々な事業その他の活動を営んでおり、私人や私企業と同様、法律の規定により国の行政機関の監督・規制を受ける立場に置かれている。

その例をあげるならば、たとえば、国の機関が庁舎その他の建物を建築しようとする場合、国の機関は、私人と同様、建築基準法にもとづき、国の機関たる建築主事に対し建築確認申請をしなければならず、法令に適合しない場合はその旨の通知(確認の拒否)を受けることになる(建築基準法一八条二項ないし四項)。

国が車両を運行の用に供しようとする場合は、私人と同様、道路運送車両法にもとづき、運輸大臣に対し、保安規準に適合する旨の自動車検査証の交付を受けなければならず、保安規準に適合しない場合は検査証の交付を拒否されることになる(道路運送車両法六〇条等)。

国の機関が無線局を開設する場合は、私人の場合と同様、電波法にもとづき郵政大臣に対し無線局開設免許申請を行い免許を受けなければならず免許を拒否される場合もありうるし、免許を受けた場合も一定の場合には免許を取消されることがある(電波法四条、五条、七五条)。

国立病院や国立大学付属病院など国の機関が設置する医療機関は、保険医療を行うためには、私立病院と同様、健康保険法等にもとづき国の機関たる都道府県知事から保険医療機関の指定を受けなければならず、一定の場合はその指定を取消されることがある(健康保険法四三条の三、同条の一二等。山形県知事は、一九八九年一月頃、医薬品メーカー「ミドリ十字」から未承認の放射性検査薬を購入し不正な保険請求を行ったとして、国立山形大学医学部付属病院に対し、保険医療機関の指定取消し処分を行っている、別添の資料参照)。

国の機関が火薬庫の設置、火薬類の譲渡、消費等をしようとする場合は私人の場合と同様、火薬類取締法にもとづき、国の機関たる都道府県知事の承認(私人の場合は許可)を受けなければならないが、一定の場合は承認を拒否されることもある(火薬類取締法一二条、二五条等)。

国の機関が公共事業のため起業者として土地の収用を行おうとする場合は、私企業たる起業者の場合と同様、土地収用法にもとづき、建設大臣に対し事業認定申請を行い、事業認定を受けなければならず、一定の場合には認定を受けられないこともある(土地収用法一七条以下)。

郵便、国有林野事業その他の国営事業の労働者に対する使用者の行為に対し、労働者や労働組合の申立により、国の機関たる国営企業労働委員会(旧公労委)が国に対し不当労働行為救済命令を発することがある(国営企業労働関係法二五条の五)。

このような例をあげれば枚挙にいとまがないが、本件は、米軍家族住宅建設事業を行う国の機関たる横浜防衛施設局長が仮設調整池の工事を行おうとしたところ、準用河川池子川の河川管理者たる逗子市長が、河川工事にあたるとして河川法にもとづき工事の中止を命じたもので、右に述べたいくつかの例と同じく、行政監督・規制権限の主体(行政主体)たる国の機関が、私人と同様の立場で事業を行う事業主体たる国に対し、監督・規制権限を発動した場合にあたる。

(二) このような場合において、行政権限行使の主体たる国の行政機関と権限行使を受ける立場に立つ事業主体たる国(又はその機関)との間において権限行使の適法性あるいは事業主体の行為の適法性をめぐる紛争が生じることが予想される。まさに本件はその場合にあたるが、このような紛争は原判決が判示するような行政内部の紛争として行政内部の調整に委ねるべき性質のものとはいえず、法律上固有の利益をもって対立する独立した当事者間の法律上の紛争と解するべきであり、裁判所によって最終解決が図られる途が開かれなければならない。

すなわち、右のような場合、法律は、事業者が国であっても私人であっても基本的には等しく規制が及ぶものとしており、法律の規定が、事業主体たる国に対する関係については単なる内部関係を定めた内部規定にすぎないなどと解することはとうていできない。

また、行政規制権限主体と事業主体との間の権限行使の適法性をめぐる紛争は、法治国家においては法律の規定にしたがって客観的に解決されなければならず、事業主体が国であるからといって、その最終解決を国の内部での調整に委ねるべきではない。そうでなければ、法律にしたがった適法な行政規制権限行使が政府内部での政策判断によってねじ曲げられ、あるいは逆に法律に適合しない規制権限行使がまかりとおることになり、国権の最高機関たる国会が定めた法律が、無に帰せられることになりかねない。

たとえば、先に示した事例について述べるならば、建築基準法が定める基準に達しないとして建築主事が国の建築確認を拒否した場合、車両保安規準に適合しないとして運輸大臣が国の所有車両について自動車検査証の交付を拒否した場合、あるいは通産省令で定める基準に達しないとして国の機関たる都道府県知事が国の火薬庫設置を不許可とした場合に、行政の内部調整によってしか最終解決が図られないとすると、政府の恣意的な政策判断によって、法がねじ曲げられ、法に違反した建物が建築され、法の基準に適合しない自動車が運行の用に供され、あるいは法令の基準に適合しない火薬庫が設置されかねないことになる。

法治国家、司法国家においては、法律にもとづく規制権限行使の適法性は、最終的には裁判所がこれを判断するのでなくてはならないのであり、本件紛争のように、国の行政監督・規制権限行使の主体と、その受け手である事業主体たる国(又はその機関)との間の権限行使の適法性をめぐる紛争は、法律上固有の利益をもって対立する独立当事者間の法律上の争訟であると解すべきである。

(三) 国の行政監督・規制権限行使の主体たる国の機関と、その受け手である事業主体たる国(又はその機関)との間の権限行使の適法性をめぐる紛争が法律上の争訟にあたると解すべきことについては、すでに原田尚彦教授が〈証拠略〉(鑑定意見書)、〈証拠略〉(「みんなで考える行政法入門7」法学教室一九九一年一〇月号)において指摘しているところである。

また、豊水道祐判事は、港湾埋立事業の遂行のため起業者たる運輸大臣が土地収用法にもとづく事業認定の申請を行ったところ建設大臣がこれを拒否した場合に、運輸大臣が右処分の取消訴訟を提起することができるかとの設問について、起業者たる運輸大臣は財産権の主体として私人又は公共団体と同様の法律的地位において建設大臣に対し事業の認定を申請するのであるから、私人又は公共団体と同一の地位において右拒否処分の取消訴訟を提起できるとしている(〈証拠略〉「建設大臣の事業認定を不服として運輸大臣が提起した抗告訴訟」行政法演習Ⅱ)。すなわち、同判事は、行政権限行使の主体たる建設大臣と事業主体たる運輸大臣の右権限行使をめぐる紛争は独立当事者間の法律上の争訟関係であるとしているのである(なお、豊水道祐判事は右論稿のなかで、国の行政機関の所掌事務および権限は国家行政組織法によって定められているから、内閣総理大臣は閣議によって建設大臣の拒否処分を取消すことはできないと述べ、右紛争が内閣の内部調整によって最終的に解決することができないことを指摘している)。

本件のような問題が訴訟によって争われた事例はほとんどなく、判例は乏しいが、公共企業体等労働委員会(公労委)が国営企業に対して不当労働行為救済命令を発した場合について、判例は、国又はその機関が国の機関たる公労委に対し取消訴訟を提起できるものとしており(東京高裁昭和四五年二月二八日判決、判例時報五八五号八一頁)、被上告人もこれを争わないものと思われるが、右の取消訴訟が提起できるということは、行政権限行使の主体たる国の機関と事業者としての国(又はその機関)との間において法律上の争訟関係が成立することを判例が認めていることに他ならない。

(四) 原判決は、本件紛争は国の機関と国(又はその機関)との紛争であるから、いわゆる「機関訴訟」ないし「自己訴訟」にあたり、「法律上の争訟」とはいえないと判示していると解される。

しかし、憲法七六条一項及び裁判所法三条一項は、一切の法律上の具体的争いについて裁判所が裁判を行うことを定めており、国と国の機関との争い又は国の機関相互間の争いであっても、裁判所の法律の解釈適用によって解決するにふさわしい法律関係についての実質的な争いがあれば、「法律上の争訟」として司法権の行使の対象とすべきものであり、国と国の機関との争い又は国の機関相互間の争いであるからといって、それだけで法律上の争訟性を否定すべきではない。

そもそも日本国憲法七六条一項の司法権の概念は、明治憲法の行政型(フランス型)を否定し、司法型(アングロ・サクソン型)を採用したと解されているが(宮沢俊義「日本国憲法」五九二頁)、アメリカ合衆国においては「事件性」(case or controversies)があれば国家機関相互間の争いも広く司法権の対象とされている(奥平康弘「憲法訴訟と行政訴訟」公法研究四一号一一〇頁)。わが国憲法が定める「司法権」もアメリカ合衆国における司法権と基本的性格を一にするものであることを考えるならば、「事件性」さえあれば本来司法権の対象と考えるべきである(河野敬「事件性」講座憲法訴訟第一巻二一九頁)。

雄川一郎教授は、「機関訴訟の法理」の論文(法学協会雑誌九一巻八号)において、「一般には、機関は対人民の関係において、換言すればいわゆる外部法関係においては、権限を有するに止まり、さきに述べたような意味において裁判所による保護を受け得べき地位にはない。しかしそのことは、行政組織内部において他の機関との関係においては保護されるべき利益を有し得ることを当然に否定することにはならない」「即ち、相争う機関が、本来一体としての行政に帰属すべき利益を争っている場合には、その紛争はいわば表見的な紛争であってそこで提起される訴訟は「自己訴訟」となろうが、そのような利益と区別された機関に固有する利益を有するような場合は、実質的な意味での紛争の存在を否定できないし、その限りにおいて当事者に法主体性を認め得ることが考えられる」(同論文一二〇七~一二〇八頁)、「或る機関が、公行政一般の利益とは異なるそれ自身の固有の利益を有し、その利益が他の機関の行為によって侵害された場合には、それが制度上人格を有しないというだけで出訴する権利を否定すべきではないように考えられる」(同一二〇九頁)、「裁判所において保護を受け得べき権利ないしは地位に関するものである限り、当事者が形式上団体か機関かということは、大きな意味をもたないと考えるべきであろう。(中略)訴訟をもって争い得べき地位が認められる場合には、機関と雖も出訴し得る場合があり得る」(同一二〇九~一二一〇頁)と述べている。

このように、国と国の機関の紛争又は国の機関相互間の紛争であっても、機関にとって固有の利益をめぐる法律上の紛争である場合には、裁判所の保護が与えられるべきであり、法律上の争訟と考えるべきである。

そして、前述したとおり、行政権限行使の主体たる国の機関とその権限行使を受けるべき事業主体たる国(又はその機関)との当該行政権限行使の適法性をめぐる紛争は、まさに固有の利益(行政権限行使主体としての利益と事業主体としての利益)をもって対立する当事者間の法律上の紛争に他ならず、「法律上の争訟」というにふさわしいものである。

2 本件紛争の争訟性

(一) 本件は、米軍家族住宅建設事業を行う被上告人国の機関たる横浜防衛施設局長が仮設調整池の工事を行おうとしたところ、準用河川池子川の河川管理者たる上告人逗子市長が、右工事は河川工事にあたるとして河川法にもとづき工事の中止を命じたもので、右に述べたいくつかの例と同じく、行政監督・規制権限の主体たる国の機関が、私人と同様の立場で事業を行う事業主体たる国に対し、監督・規制権限を発動した場合にあたることは明らかである。

上告人逗子市長は、本件工事は河川法八条の河川工事にあたるとし、河川法が定める法の趣旨実現のため、同法が逗子市長に付与した権限を行使し、本件工事中止命令を発したものであり、これに対し、被上告人国(横浜防衛施設局長)は、本件工事は河川工事にはあたらないとして中止命令の効力を争い、米軍家族住宅建設の事業を遂行するため本件工事を続行しているものであり、それぞれが固有の法的利益を主張し、争っているものである。

行政規制権限主体たる上告人と事業主体たる被上告人との本件紛争は、まさに固有の利益を持って対立する当事者間の法律上の争訟にあたるというべきである。

(二) 原判決は、事業者が河川工事を行う場合は河川法二〇条により河川管理者の承認を要するが、事業者が国の場合は同法九五条が、「国と河川管理者との協議が成立することをもって承認があったものとみなす」と定めており、その場合の協議は河川管理者が優越的な地位に立って単に相手方の意見を聴取するというものではなく、事業者たる国と河川管理者が双方の意思を積極的に出し合って協議することが予定されているというべきであるから、両者の見解の相違にもとづく対立が生じた場合も、それは国の機関同士の紛争であり、一個の法主体内部の紛争として、その解決は行政内部における調整により図られるべきものである、としている。

しかし、法が、「承認」に代えて「協議の成立」としたのは、事業者が国であることから、河川管理者の権限行使にあたり事業者の立場からの意見を聴取しようとするものにすぎず、河川管理権限の行使にあたっての判断それ自体を事業者と共同で行うことを定めたものでないことは明らかである。

原判決も認めているように、法は、河川管理の重要性と河川工事が治水面に及ぼす影響の重大性を考慮して、河川の管理権限を河川管理者に専属的に付与したものであり、事業者たる国の機関が河川管理者の意向を無視して河川管理者の承認を要する行為を行うことはできないのであり、河川工事に関する協議の結果、協議が成立するに至らなかった場合は、河川工事を行うことは許されないのである。すなわち、「承認」に代えて「協議の成立」を要件とし、事業者たる国の意見を聴取するとしても、河川工事を認めるか否かの最終判断権限は河川管理者にあることになんら変わりはないのである。

また、このように、河川法は河川管理者に付与した河川管理の権限、利益を国の事業に対しても譲ることのできない固有の利益として尊重しているのである。

したがって、「承認」に代えて「協議の成立」とされているからといって、本件河川工事に関する紛争が、行政規制権限主体(行政主体)たる上告人と事業主体たる被上告人との、固有の利益をもって対立する当事者間の法律上の争訟にあたると解することになんら差し支えないものである。

三 本件紛争の争訟性(その二、機関委任事務の性格とこれを執行する地方公共団体の長の地位の独自性)

さらに、本件紛争において監督行政を行なうのは国から事務の委任を受けた地方公共団体の長であって、機関委任事務を執行する地方公共団体の長は、次に詳述するとおり国から相対的に独立した地位ないし利益を有しているのであるから、その争訟性は一層明らかである。

1 機関委任事務の性格とこれを執行する上告人の地位について

原判決は、地方公共団体の長は国の機関委任事務の処理につき、国に対し独立した地位ないし利益を有するものではなく、職務執行命令訴訟制度も、地方公共団体の自主独立性の尊重と指揮監督権の実効性の確保との調和を図るため、国等の代執行権、罷免権という強力な権限の行使が、地方公共団体の公選の長という本来の地位に多大の影響を与えることになるので、その行使方法に一定の制約を課したにすぎず、地方公共団体の長が国の機関であり、国の指揮監督を受ける関係にあることを否定するものではない、と判示している。

しかし、原判決の右のような判示も、以下のとおり誤っているといわなければならない。

(一) 上告人が地方公共団体の長として行なっている準用河川の管理は、後述のとおり国の事務ではなく、実質的には逗子市の事務とみるべきであるが、原判決のように国の機関委任事務だとしても、河川管理者とされている上告人は、憲法の地方自治の本旨に基づき、地方公共団体の公選の長としての性格を保持しつつ、「自らの責任と判断において」(地方自治法一三八条の二)国の機関委任事務を行なっているのであるから、上命下服の関係にある国の地方出先機関と異なるのである。

そもそも、ある事務が地方公共団体の長に国の機関委任事務として委任されるのは、当該事務の全国的な画一的処理を避け、地方の実情に即応した処理と民主的な意思の反映を確保するためであるとされている。従って、機関委任事務を処理する地方公共団体の長は、地域社会の特性や住民の意向に配慮しつつ、機関委任された事務を執行すべき立場にあるのである。その意味で、国の機関委任事務は、自治体の長の手により、各々の自治体の総合的な政策の中に有機的に位置づけられて自主的に執行されてゆくことが期待されており、従って、国による上命下服の下での指揮監督によっては、自治体の自主性を無視し侵害するものと考えられているのである。

(二) すなわち、地方公共団体の長は、国の機関委任事務を処理する場合にあっても、公選された長としての性格を保持しつつ国の指揮監督を受けるものとされているので、純然たる国の機関となるのではなく、国の指揮監督には憲法上の地方自治の本旨を尊重し、それとの調整を図る見地から一定の制約があり、純然たる国の一機関である国の地方出先機関が国家行政組織法において上命下服の関係におかれ、下級機関として覊束され、拘束されるのとは基本的に異なるものとされているのである。

法が機関委任事務を行なう地方公共団体の長に対する国の指揮監督について、都道府県知事にあっては主務大臣、市町村長にあっては都道府県知事と主務大臣としたのは(地方自治法一五〇条)、国の本来の機関のように単純なピラミッド型行政組織の下での上命下服関係と同一に律することは適当ではなく、基本的には国の指導性(一般的な基準の設定行為ないし個別的な助言・指導など)を前提とした両者の協力的な機能分担関係としてとらえ、市町村長に対する知事の指揮監督は自治体の長としての両者の協力関係の必要性が大きいことを前提にしたからである(参照、基本法コンメンタール「地方自治法」、日本評論社、一二八頁)。

又、都道府県知事が機関委任事務にかかわる市町村長のした処分について取消権・停止権を行使できる場合を「(市町村長の)処分が、成規に違反し又は権限を犯すと認められるとき」に限定し(同一五一条)、違法の矯正だけに止め、当不当の監督には及びえないとしたのは、機関委任事務を行なう市町村長の独自性を尊重したためである。更に、主務大臣といえども職務命令を発してその履行を政策的判断によって任意に強制することはできないのである。すなわち、主務大臣が職務命令の履行を強制するには職務執行命令訴訟によらなければならないが、この場合も職務執行命令を主務大臣は都道府県知事に対して行なうのみで、市町村長に対しては都道府県知事が行なう(同一四六条)として国による直接的な関与をさし控えるとともに、「地方公共団体の長に対する指揮命令が適法であるか否かが裁判所で審査され、裁判所が当該指揮命令の適法性を是認した場合に、はじめて」職務命令の履行を強制しうるとして、主務大臣が自らが発した職務命令の適法性を立証しなければならないとしたのも(最高裁昭和三五年六月一四日民集一四巻八号一四二〇頁)、機関委任事務を執行する地方公共団体の長の独自性を考慮したためである。

(三) ところが、原判決は職務執行命令訴訟制度の設置を国の代執行権、罷免権の行使が、地方公共団体の公選の長という本来の地位に多大な影響を与えることから、その行使方法に一定の制約を課したにすぎないとして、職務執行命令訴訟制度を代執行、罷免手続の特別手続であり、監督権の行使方法として特別に法律が裁判所に権限を附与したものであるととらえている。

しかし、原判決のように職務執行命令訴訟を行政監督の特別手続としてとらえることは、前掲の最高裁判所昭和三五年六月一四日判決によって明確に否定されたのである。最高裁判所は右判決において、機関委任事務にかかる紛争は司法的監督により処理されるべきであり、行政的監督の余地はないとしているのである。右判決が「裁判所が国の当該指揮命令の内容の適否を実質的に審査することは当然で」あるとして、職務執行命令の実質的適法性についても裁判所の審査の範囲となるとするのは、この故である。地方公共団体の長の自主独立権を尊重するためには、国の行政機関内部における組織法的服従義務からはなれて、一般国法の見地から首長が命じられたことをなす法律上の義務があるか否かを判断させるべきだと考えられているからである(金子宏、ジュリスト二〇八号一一〇頁)。

右最高裁判所判決について、白石健三調査官は「国の委任事務処理の関係においても、地方公共団体の長は、いわゆる上命下服の関係によって律せられる国の特別権力関係のうちに組み入れられるわけのものではなく、あくまで、地方公共団体の執行機関の構成者として、その権限を行使するに過ぎず、その身分も、国家公務員として国の上級機関に隷属することとなるわけではない。換言すれば、国の本来の行政官庁の上下関係は、全面的な上命下服の関係であるのに対し、国の委任事務処理の関係における国の上級行政機関と地方公共団体の長との関係は、法律上委任された権限行使の上での結びつきに過ぎない」と解説しておられるが(最高裁判所判例解説、民事篇昭和三五年度、二二九頁)、これは機関委任事務においても地方自治体の長の自主独立権が存在し、その限りで明確に機関委任事務における長の独立した地位及び利益があるとするものである。

こうして、国の機関としての自治体の長は、その機関委任事務の管理執行について必らずしも国の指揮に従わないことが、当の自治体の長のまさに自主的な判断としてなされる場合があるのである。地方自治法一三八条の二が、地方自治体の長が国の機関委任事務を執行するについて「自らの判断と責任において、誠実に管理し及び執行する義務を負う」と定めたのも、この故である。

このように、機関委任事務を行なう地方自治体の長は、国から相対的に独立した地位ないし利益を有しており、上命下服の関係にある国の内部機関とは異なるから、地方自治体の長による国の機関委任事務についての紛争は、国の内部機関の見解の相違に基づく対立とはいえず、内閣総理大臣が調整・裁定をすることにより解決できる性質のものではないのである。現行の国の行政組織法制のなかには、こうした対立を円滑に調整・裁定できるシステムは存在しておらず、一方が機関委任事務の受任機関である場合は、別個の人格間の「法律上の争訟」として解決されなければならないのである。

上告人は、国の機関委任事務を執行する地方公共団体の長として、国から独立した地位ないし利益を有して監督行政を執行しているのであるから、その規制を受ける事業主体としての国との紛争は、別個の人格間の紛争として裁判所法三条一項の「法律上の争訟」にあたることは明らかである。

2 本件準用河川管理事務の性格と上告人の地位の独自性

(一) 機関委任事務は、前述のように相対的に独立した法的主体である地方公共団体の長に対して国が事務を委任するものであり、国が国の内部行政機関である各省庁等の長に事務を執行させるのとは基本的に異なるが、委任された事務内容も必ずしも国の固有の事務とはいえず、準用河川の管理のように本来は地方公共団体の事務の性格を有する事務も含まれている。

国の機関委任事務のなかには、社会福祉、公衆衛生に関する事務や各種営業の許可等純然たる国の事務とはいえないものが多数あるが、その事務の執行に対して国が一定水準を維持する必要があるなど国も利害関係を有するところから、国がこれらの事務に関与できるようにするため機関委任事務の形式をとり、あるいは法の定める規制権限を利用して自治体の長が適切な管理を行うために、機関委任事務の形式をとるのである(秋田周「地方公共団体の事務・機関委任事務」、現代行政法体系第八巻、一二五頁)。機関委任事務の方式が、一種の国の関与の方式であり、国・地方公共団体の共同事務ないし共管事務についての協力方式、共同処理方式と見ることができるというのは、この故である。

(二) このことは、機関委任事務に関する費用負担にも明瞭にあらわれており、地方財政法が、機関委任事務の多くについて、経費の相当部分を地方公共団体に負担させているのは、それらが実質的には国の固有の事務ではなく、地方公共団体に利害関係のある自治体の事務の性格を有するとの考えからである。

河川管理についても右の理は貫徹されており、二級河川については、その管理に要する経費は都道府県の負担とされ(河川法五九条)、国は二級河川の改良工事費の二分の一以内を負担するとされているにすぎない(同法六二条)。準用河川については、その管理に要する費用はすべて市町村の負担とされ(同法一〇〇条一項、五九条)、改良工事費を国の負担とする河川法六二条の規定は準用されていないのである(河川法施行令五六条)。

原判決は、管理費用の負担がこれら自治体とされているのは、受益の厚薄に応じたものだとしているが、受益の厚薄というよりもそれらの管理事務が本来的に自治体の事務に属しているからにほかならないのである。

(三) 市町村長が行なう準用河川の管理事務は、形式上機関委任事務とされているが、準用河川の管理は本来的に国の事務であるとはいえないのである。

河川は公共用物(公物)であり、公共のものであるが、降水の排出、田畑への取水等その流域の利便に供され、あるいは洪水等流域の災害を防止するためのものであるから、その流域の住民の生活や福祉に深く結びついたものであり、本来その流域の地方公共団体の固有の事務というにふさわしいのである。ことに、一級河川、二級河川のような広大な流域にまたがる河川(河川法三条の河川)以外のローカルな河川の管理はその流域の市町村こそがその責任をもつにふさわしいのである。

地方自治法二条三項二号が地方公共団体固有の事務として「河川の管理」を例示しているのは、右のような考え方にもとづくものである。そして、同条四項及び六項は、「広域にわたる河川の管理」は都道府県の事務とし、それ以外の河川の管理は本来市町村の事務とし、一級河川でも二級河川でもないいわゆる「普通河川」の管理は、地方自治法二条により、形式上も実質上も市町村の事務としたのである。

このような普通河川を、市町村長が河川法一〇〇条一項にもとづき準用河川に指定すると、形式上は河川管理は国の機関委任事務となってしまうが、これは、市町村が管理する普通河川について、河川法が定める様々な規制手段を利用して適切な管理を市町村が行なえるよう、その長に河川法上の河川管理者としての権限を付与させたためであって、実質的に市町村の事務であることに変わりはないのである。

(四) 本件池子川も、昭和四九年三月に逗子市長によって本件池子米軍家族住宅建設予定地を含む一部が準用河川に指定されたが(〈証拠略〉)、それ以前はすべて普通河川であり、形式上も実質上も逗子市が全域を管理していたものである。準用河川に指定された以後も、指定部分は形式上は逗子市長がこれを管理することになったが、実際上は指定部分とそれ以外の部分について管理の差異はなく全域にわたり逗子市(その執行機関たる逗子市長)がこれを管理して、管理に要する費用も逗子市がすべて負担してきたのである。

このように、本件準用河川の管理は、形式上は国の機関委任事務とされているが、実質的には逗子市の事務である。

(五) 右の点に関して、原判決は、河川法が水系一貫管理の考え方をとり、河川の管理が総合的に行なわれる必要があることをもって、河川管理は本来的に国の事務であるとしているが、失当である。

なぜなら、水系一貫管理とは、本来河川はその性質上有機的に結合して水系をなしているため、その管理も水系を一貫して行なうことがふさわしいとの立場から、河川管理の総合性の確保を図ろうとする考え方にすぎないからである。むしろ、河川法は、水系一貫管理を達成するために、河川管理者の協議によって河川の総合的な管理を行なうことを予定している、と解される。

すなわち、河川法はこのような河川管理の総合性を確保するためには、河川管理者の協議を必要とすることとし、行政区画によって河川の管理が分かれる場合については、境界に係る二級河川の管理の特例として河川管理者が協議して管理の方法を定めることができるとし(河川法第一一条)、又河川管理者が他の河川管理者の管理する河川に影響を及ぼす行為又は処分を行う場合には当該他の河川管理者に対して協議することを義務づけている(河川法第一五条)のである。

このように河川法は、水系一貫管理の立場から、河川管理について河川管理者間の調整が必要な場合には、河川管理者間の協議によるものと定め、これにより河川管理の総合性を確保しているのであるから、原判決の判示するように河川管理が本来的に国の事務であるとはしていないのである。

本件準用河川も、一方で二級水系で二級河水である田越川に合流し、他方で二級水系以外の水系で(準用河川ともされていない)普通河川と接続しているが、これら水系はすべて逗子市内に存し、隣接市町村には影響のない水系として河川管理者の協議によって総合的に管理されているのである。

(六) 以上のとおり、上告人は、形式上は国の機関委任事務として本件準用河川を管理しているが、その実質は国から独立した法主体たる地方公共団体(逗子市)の事務として本件準用河川を管理しているのである。

そして、上告人は、独立行政主体たる逗子市の行政事務として、本件準用河川につき河川工事を行なっている事業主体たる国に対し、河川法に基づく河川管理者としての権限を行使し、工事の中止命令を発し、その履行を求めるため本訴を提起しているのである。

国の機関委任事務としての監督行政について、監督行政を行う地方公共団体の長と事業主体として当該監督行政を受ける立場にある国との紛争が「法律上の争訟」にあたることは既に述べたとおりであるが、本件訴訟は、形式上は国の機関委任事務であるが実質上は逗子市の事務である本件準用河川の管理について、その管理権者である逗子市長と河川管理権の行使を受ける事業主体たる国との間の工事中止命令の当否をめぐる紛争であるから、国の内部の紛争ではなく、別個の人格間の紛争として裁判所法三条一項の「法律上の争訟」にあたることは一層明らかである。

四 法の支配と司法の役割

さらに、法の支配を中心とする現代法治主義国家における司法・裁判所の役割という面から検討し、原判決の論理は裁判所の役割を放棄する論理であることを明らかにしたい。

1 わが国が法治主義を採用していることは説明を要しない。法治主義国家においては、立法・行政・司法のいずれの分野においても、手続面でも内容の面でも、国の統治は法に基づいて行われなければならない。そして法が何であるかを確定するのは、最終的には司法・裁判所の役割と定められている。もとより、立法・行政の分野においては妥当性の側面があり、妥当性の判断は司法が決定する問題ではない。しかし、立法・行政の分野でも違法性・合法性の判断は最終的には司法が責任を負う問題なのである。

現代法治主義は、国権力を分担する国家機関も誤りを冒すことがありうるという考えを前提としている。違憲立法審査権は立法も誤りを冒すことがあるということを前提として成り立ち、行政訴訟は行政も誤りを冒すことがあるということを前提として成り立つ。まして増大しつつある国の事業において国が誤りを冒すことがあるということを前提としなければ、国家賠償などの裁判は成り立たない。

立法や行政も誤りを冒すことがありうるという前提、その誤りが違法性・合法性の側面に及ぶときは司法がこれを正すことができるという前提、これらを無視するならば、現代法治主義国家における司法の責務は果たせないのである。

原判決は内閣(行政主体および事業主体たる国)も誤りを冒すことがありうるという事態を念頭におかず、その結果、期待を解釈に置き換えて論理を展開し、法律上の争訟に当たらないとの判断の誤りを冒している。そして、現代法治主義国家における司法・裁判所の役割を放棄する結果を招いている。

2 ここで、原判決の論理の筋道を明確に理解するために、本件事案が提起している問題は何であるかを簡単に整理してみる。

(一) 河川管理者である上告人は仮設調整池工事中止の行政命令を出している。この行政命令は行政主体である行政機関がなした行政処分である。

本件における河川管理行政は、一般に機関委任事務と解されており、河川管理者である市長は県知事の監督を受け、県知事は更に建設大臣の監督を受ける。したがって、河川管理者としての市長の行政に瑕疵があると監督者である県知事が判断した時は、県知事は市長の行政処分を変更する手続をとって監督することになり、さらに県知事が市長の行政処分を変更しない時に、その監督者である建設大臣は県知事に対して市長の行政処分を変更するように職務命令を出して監督することになる。このような監督は上告人のなした行政命令に対してなんら存在しない。監督者である県知事はこれを変更するような措置は全く取っていないし、さらにその監督者である建設大臣が県知事に対して職務命令を出したということもない。監督が存在しないということは、前記行政命令はこれを知る監督者によっても是認されているとみるのが法論理上当然である。

(二) 被上告人(実際には防衛施設局長)は、右の行政命令にもかかわらず、仮設調整池工事を続行している者である。この工事は事業主体が行う事実行為であり、第一審以来被上告人が認めているように、一般の民間事業主体が行うものと法的に差異のない行為である。

河川管理行政の規制を受ける立場にある事業主体は、行政に瑕疵があると考えるときは、行政処分(本件で言えば中止命令)の変更取消を求めて不服申立ができ、さらに行政訴訟を提起することもできる。事業主体が国である場合も同様に解されることは、既に事例を挙げて説明したとおりである。事業主体である被上告人は、このような手続を全くとっておらず、前記行政命令を無視して、工事を続行しているのである。

(三) なお、民間の事業主体が行政命令に違反して違法な事実行為をする場合に、行政主体が行政命令の実効性を確保するために司法の救済を求めうることは既に先例が存在する。

(四) 以上の点を前提に本件事案の提起している問題を端的に表現するならば、「事業主体が国である場合には、行政命令に違反する事業執行・事実行為がなされても、行政主体は手を拱いて見ているしかないのか」という問題であることは、容易に理解できるはずである。

3 これに対し原判決の回答は次のようである。

(一) まず、原判決は「池子川の河川管理者である市長と工事を実施する横浜防衛施設局長も共に国の一機関としての立場にあって……右両者に見解の相違に基づく対立が生じた場合にも、一個の法主体内部の紛争として、その解決は、行政内部における調整により、最終的には国の行政権の属する内閣の責任と権限により図られるべきことが予定されているものと解すべきである」とする。

しかし、これは事態が法の趣旨に従って円滑に機能することへの単なる期待であって解釈とは言い難い。なぜならば、この期待が果たされず、適法な「内部調整」がなされないまま違法な事実が進行する場合にどう対処するかが、全く検討されていないからである。

「調整」も法治主義の下では当然に法の定める手続に則って行われる。しかし、前項で述べたとおり、本件においては、行政主体内部での監督による調整は存在しないし(監督者が是認している行政命令と解されるのが当然の状況である)、事業主体からする行政命令に対する異議・行政訴訟等の外部的・内部的調整もなく、内閣の責任と権限による調整も図られていない(内閣総理大臣が防衛庁長官なり建設大臣になんらかの指示をした形跡はない)まま既に長期間にわたる。この状況下で「予定されているものと解すべきである」というのは、法の解釈ではなく、期待をもって解釈に代えるものであり、判断を回避して違法を黙認するものである。

(二) また、原判決は「地方自治法が、地方公共団体の長は、機関委任事務についても、自らの判断と責任において誠実に管理し執行する義務を負う旨定めていることは、控訴人主張のとおりであるが、そのことから、地方公共団体の長が、機関委任事務につき、職務執行命令訴訟のように特に法定された機関訴訟においては格別、本件のような民事訴訟における対立当事者となりうべき、国から独立した地位ないし利益を有するものと認めることはできない」と述べ、また「制度論としてはともかく、現行の訴訟制度は、特に出訴を認める法律の規定がない限り、右のような(国の機関相互の)紛争の訴訟における解決を予定するものではない」とする。

しかし、この判断は機関訴訟の概念がもともと行政主体内部の機関相互間の権限の紛争に適用されるものであることを忘れ、機関という言葉に惑わされた結果、本件事案が行政主体と事業主体との紛争であることを無視した判断である。その場合には「出訴を認める法律の規定がない限り」訴訟ができないと解するのではなく、原則に立ちもどって「出訴を禁じる法律の規定がない限り」訴訟ができると解するのが当然なのである。

第二節で、上告人は国の機関が事業活動に関して私人と同様に国の行政主体の監督規制を受ける例を挙げた。この場合に事業主体である機関は行政の許認可の判断に対して抗告訴訟を提起できるはずである。それとも原判決はそれも国の機関相互の紛争であるから本来訴訟はできないと考えるのであろうか。

(三) いずれにしても、本件事案で提起された前項に掲げた「事業主体が国である場合には、行政命令に違反する事業執行・事実行為がなされても、行政主体は手を拱いて見ているしかないのか」という問題に対して原判決は「そのとおり、手を拱いて見ているしかない」「少なくとも司法による救済はない」と回答していることになる。しかも、原判決は、具体的な状況の如何に拘わりなく、無条件かつ無留保で拱手傍観する論理を採っているのである。この結論は、国が事業主体である場合には、違法な事業活動であっても、法による規制はできない、政治的ないし事実上の力によって決まる、というのと同じである。

4 右に述べた原判決の判断は、1項に述べた現代法治主義における司法・裁判所の責務に応えていない。司法は、立法・行政に対しても、まして国が主体であろうと民間が主体であろうと事業活動に対して、違法性・合法性の側面においては最終的な判断を下せるものでなければならない。法の解釈はこのような憲法構造を活かす方向でなされるべきものであり、さもなければ違憲解釈のそしりを免れない。原判決が裁判所の役割を貶めるような結論になったのは、事件性・法律上の争訟性に関して誤った解釈をしたからに外ならない。

本件事案について法律上の争訟性のあることについて、第二節争訟性その一、第三節争訟性その二に述べた。これが、憲法構造にかなった解釈であると考える。国が事業執行について違法な行為をする事案は稀かも知れないが、今後も起きないとは言い切れない。その場合には司法がその違法を正すことができるし、正さなければならないという司法の役割を踏まえ、必要な場合に対処できるように法律上の争訟性の門戸を開いた解釈をしなければならない。

原判決は、この点を誤り、憲法第七六条「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」、の規定、およびこれを受けた裁判所法第三条「裁判所は日本国憲法に特別の定める場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し」との規定に違反するものである。

五 結論

以上のとおり原判決の判断は憲法七六条一項及び裁判所法三条一項に違反するものであり、かつ、これが判決に影響を及ぼすことが明らかである。

よって、すみやかに原判決を破棄されたい。

第二原判決は、憲法九二条の解釈を誤り、判決に影響を及ぼすことが明らかな違法がある。

一 原判決は、地方公共団体の長が、機関委任事務についても、自らの判断と責任において、誠実に管理し執行する義務を負うとしても、職務執行命令訴訟のように特に法定された機関訴訟は別として、民事訴訟における対立当事者となりうべき、国から独立した地位ないし利益を有するものと認めることはできない、と判示して機関委任事務を執行する地方公共団体の長である上告人につき、国から独立した地位ないし利益を否定している。

しかし、原判決のように、機関委任事務を執行する地方公共団体の長の地位の自主独立性を否認するのは、その本来の地位の自主独立性を害することになり、ひいては地方自治の本旨に悖る結果となることは必定であるから、地方自治の本旨を保障する憲法九二条に違反していることになる。

二 憲法九二条が保障する「地方自治の本旨」は、地方公共団体を国家の構成要素としながらも、国家に対して法的に独立した自治体としての存在を認め、それに十分な地方自治の権能を認めるとともに、地方自治を達成するために住民から直接選任された地方公共団体の長の自主独立性を十分に保障し、これを最大限に尊重することを求めているとされている。その意味でも、公選された地方公共団体の長の地位の自主独立性は、憲法九二条の「地方自治の本旨」の不可欠の内実をなすものとなっているのであり、従って、その地位の自主独立性を害し、否認することは、ほかならぬ地方自治の本旨に悖るものとして、憲法九二条違反のそしりを免れないのである。

公選された地方公共団体の長の地位の自主独立性は、首長が当該地方公共団体の執行機関である場合に妥当することはもちろんであるが、首長が国の機関委任事務を執行する場合においても基本的には変わるものではない。なぜならば、「国の委任事務処理の関係においても地方公共団体の長は、いわゆる上命下服の関係によって律せられる国の特別権力関係のうちに組み入れられるわけのものではなく、あくまで、地方公共団体の執行機関の構成者として、その権限を行使するに過ぎず、その身分も、国家公務員として、国の上級機関に隷属することとなるわけではない」(前掲、最高裁判所判例解説、民事篇昭和三五年度、二二九頁)からである。

このように、地方公共団体の長は、国の機関委任事務を執行する場合であっても、公選された長としての性格を保持しつつ国の指揮監督を受けるにすぎないのであるから、国の指揮監督には憲法上の地方自治の本旨を尊重し、それとの調整を図る見地から一定の制約があり(その詳細は第一、三、1、(二)を参照)、首長の地位の本来の自主独立性は基本的にはなお保持されているのである。

国の事務が地方公共団体の首長に機関委任された場合にも、その事務を執行する権限と責任はあくまでも地方公共団体の首長に属するのであるから、地方公共団体の首長は、地域の特性や利害を顧慮し地域の要望を反映して、委任された国の事務を自主的に執行することができるし、またそうすべき立場にあることは、第一、三、1、(一)でも述べたとおりである。

いずれにしても、地方公共団体の長に機関委任された国の事務は、地域住民の生活にも深くかかわり、各地域の実情にそった需要に応えていく自主的判断の余地を自治体の長に認めることが本来予定されているのである。むしろ、自治体の長に自主的判断の余地を認める点にこそ、国の地方出先機関が直営せず、機関委任事務とする現行法制の意味があるというべきである。

機関委任事務を執行する地方公共団体の首長は、形式上は主務大臣の指揮監督に服することとされているが(地方自治法一五〇条)、本来の国の下部機関と異なり、法制上も半ば独立した地位を保障されていることも、既に第一、三、1、(二)において詳述したとおりである。こうして、地方自治の本旨が要請する地方公共団体の首長の地位の自主独立性は、国の機関委任事務を執行する場合においても変わることなく貫かれているのである。

三 最高裁判所が前掲の昭和三五年六月一七日の判決において、「国の委任を受けてその事務を処理する関係における地方公共団体の長に対する指揮監督につき、いわゆる上命下服の関係にある、国の本来の行政機構の内部における指揮監督の方法と同様の方法を採用することは、その本来の地位の自主独立性を害し、ひいて、地方自治の本旨に戻る結果となるおそれがある。そこで、地方公共団体の長本来の地位の自主独立性の尊重と、国の委任事務を処理する地位に対する国の指揮監督権の実効性の確保との間に調和を計る必要があり、地方自治法一四六条は、右の調和を計るためいわゆる職務執行命令等訴訟の制度を採用したものと解すべきである。」と判示したのは、判文からも明らかなように、機関委任事務を執行する地方公共団体の長の地位の自主独立性を尊重し、もって地方自治の本旨に悖る結果となることがないように顧慮したためである。

このように、機関委任事務を執行する地方公共団体の長に対して職務執行命令訴訟により、原則として国の行政的監督による矯正を排除して、司法的関与を実現した背景には、「国の立場と地方自治の立場とを、行政裁量的にでなく、司法的客観的に公正に調整しようとする考え方」があり、従来の中央統制に見られた後見的監督を避けて、地方公共団体の自主性と自立性を強化し、国と地方との間の「平等の対立協調の関係」を促進しようとのねらいがあるのである(原龍之助「地方制度改革の基本問題」九〇頁)。

又、最高裁判所が前掲判示に引続いて「職務執行命令訴訟において、裁判所が国の当該指揮命令の内容の適否を実質的に審査することは当然」と判示したのは、国の機関と地方公共団体の長の法令解釈に対立が生じる場合があることを前提にして、その場合には首長は適法な命令にのみ服従義務が生じるのであって、職務執行命令訴訟で首長の主張が退けられるまでは、首長は法令について独自の解釈をなしうる権限を有していることを認めたものである。

なお、国家行政組織法一六条一項が、訴訟以前の段階で、機関委任事務について大臣が地方公共団体の長に対してなす命令等について、「地方自治の本旨に反するものがあると認めるときは、当該地方公共団体の長はその旨を内閣総理大臣に申し出ることができる」と定めたのは、機関委任事務について首長が法令解釈について独自の解釈をなしうることを前提としたものといえる。

こうして、国の機関としての地方公共団体の首長は、長のまさに自主的な判断としてその機関委任事務の管理執行について国の指揮に従わない場合があり、その結果国と対立する場合が生じることは本来予定されているのである。地方自治法一三八条の二が、地方公共団体の長が国の機関委任事務を執行するについても「自らの判断と責任において、誠実に管理し及び執行する義務を負う」と定めたのは、右のような場合も含めて、地方公共団体の長が国から独立した地位ないし利益を有することを認めたものである。

このように、機関委任事務を行なう地方公共団体の長は、国から独立した地位ないし利益を有しており、民事訴訟における対立した当事者となりうるのであるから、これを否認する原判決の判示は基本的な誤りを犯しているというべきである。

原判決の誤りは判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、破棄されなければならない。

以上

(添付書類省略)

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